グイノ神父の説教
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年間第2主日 2008年1月20日
イザヤ49章3−6節 1コリント1章1−3節 ヨハネ1章29−34節
洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と私達が毎日曜日に何回も繰り返す言葉でイエスを指し示します。 この言葉を機械的に言わないために、どうしてこう言われたか、暫く熟考しなければならないし、この象徴的な表現が意味するのは何かを、自問しなければなりません。
「神の子羊」と言う表現は、聖書の重要なテキストの箇所を思い出させます。 第一にイザヤの預言書の53章です。 預言者はある「神の召使」について語ります。 イザヤ自身のことか、イスラエルの民の事か、救い主のことか、はっきり分かりません。 とにかく、この召使が「屠り場にひかれる子羊のようだ」(イザヤ53章7節)と描かれています。 洗礼者ヨハネの言葉を聴いた人々は、疑いもなく、この神秘的な召使は救い主であると思いました。
「神の子羊」と言う表現は、またユダヤ人の過ぎ越し祭を思い出させます。 非常に長い出エジプトの12章です。 自由を約束された土地へ過ぎこすために、抑圧の土地エジプトから逃げるすぐ前に、ヘブライ人の各家族は子羊の喉を切って殺し、それぞれの家の扉の上にその血で印をつけました。 この屠られた子羊は無罪の生贄のシンボルです。 が同時に、救いと命と自由のシンボルでもあります。 また、イエスを神の子羊として指摘しながら、洗礼者ヨハネはイエスを象徴的に、彼から命を盗む人々に抵抗しない、無罪の生贄として紹介します。 イエスは神の子羊で、救いと永遠の命と神の子の自由を与えると聖パウロは言っています。
最後に、モーセの時代の贖罪の儀式を思い出さなければなりません。 それはレビ記の16章に描かれています。 イスラエルの民が神との契約を結ぶために、各自が自分の罪を告白しながら、子羊の頭の上に手を置かなければなりませんでした。 この子羊はそれから砂漠に追い払われ、イスラエルの民の罪すべてを負って悪魔に送られます。 洗礼者ヨハネの時代の人々が、自分達の罪すべてをヨルダン川に残して、イエスはその水の中で洗礼を受けることで、自分の身に、イスラエルの民の罪だけではなく、世界中の罪を引き受けました。 「私達の為に彼は罪とされた」(2コリント5章21節)と聖パウロは言います。 私達は皆、世の罪の中にいます。 唯一の正しい方は一人しかありません。 それは神の無罪の召使、しみのない子羊、イエス・キリストです。 彼のみが世の罪を背負った唯一の正しい人で、それを砕くために、キリストは死に引き渡される事を引き受け、永遠の契約の印である彼の血はすべての人のために流されなくてはなりません。
少しずつ神が私達に啓示される神秘を、真理のうちに生きるために、私たちの信仰のシンボルのすべてをよく理解する必要に気付かなければなりません。 とうのは、注意深くイエスを眺めた後で、ヨハネはイエスが神の子羊であることを発見します。 眼差しは信仰の土台です。 聖書は度々「彼らは目があっても、見ない・・・だから彼らは信じることが出来ない」という言葉を繰り返します。 日曜日から日曜日へと、典礼は私達がいろいろのシンボルを通してキリストを眺め、キリストを良く知るために学ぶように招いています。 キリストの例え話しであろうと、ロウソクの光、ミサのときの衣服の色、祭壇の形であろうと、花、鐘の音、または、詩篇の歌の中で使われているイメージなどすべてが、信仰と賛美の中で生きるために、神の神秘を理解するように私たちを招いています。
私たち一人ひとりが物事を違ったやり方で眺めています。 一人は詳細に眺め、他の一人はそれを見ません。 私たちの教会の中に、見ないで眺めているたくさんのものがあります。 私たちの眼差しは信仰を伴っていなければなりません。 聖霊によって照らされた信仰の眼差しは、普通、見ていないものを見させ、キリストの神秘に私たちの眼差しを注がせます。 信仰の眼差しはいつも慈しみと赦しを生み出すイエスの穏やかさを与え、すべてを父である神の愛のうちに新たにし、慰めと平和の源泉となる聖霊の喜びを引き起こします。 アーメン
年間第3主日 2008年1月27日
イザヤ8章23節−9章3節 1コリント1章10−17節 マタイ4章12−23節
年間第3主日の朗読のテキストは私達に2つのテ−マを深く掘り下げるように勧めています。 このテ−マの一つは光についてと他の一つは一致についてです。 一致についてのテ−マは、聖パウロがコリントの信徒への手紙の中で、分裂に対して用心するように語っています。 分裂するものを考えに入れて見つめるよりも、むしろ、結び付いているものを見、類似したものを眺めるように勧めています。 キリスト者の場合、一致させるものはキリストです。 この一致の週間の終わりに、パウロのテキストは、ちょうど良い所に当っています。
福音は光のテ−マを伝えています。 暗黒のさなかには私達は何も見えず、何処へ行くかも分からず、不安になり、障害物に躓きます。 光は信頼を生み出し、歩く所が見え、安全だと感じます。 イエスは洗礼者ヨハネの逮捕を耳にしたばかりです。 雰囲気は自分に注意を引くのが良いとは思われません。 人々は恐れています。 自分のいる状態に静かにしているほうが良いと思われました。 しかしイエスは、彼の従兄弟が捕らえられたので、全く反対の事をしてあとを継ごうと決めました。 すべてが終わったと考えている人々に新しい希望を与えようとされます。 それでイエスは大きな湖のあるカファルナウムへ行こうと、ナザレトの丘を去られます。 何故でしょうか? このカファルナウムは「異邦人の交差点」です。 そこには「ヴィア・マリス」(海の道)と言われるローマ人の作った大きな道があり、あらゆる国のキャラバン(隊商)が往来しています。 この場所で、イエスはあらゆる種類の人々に「良いしらせ」を告げようとします。 光の預言者、イエスはイザヤの預言を成就しにきました。 彼は「暗闇と死の陰に座している者たち」を照らすでしょう。 彼は神から最も遠くにいる人々の最も近くに身を置きます。 そこでイエスは人々に、カファルナウムを彼らの暗闇を照らす光として示します。 彼が選んだばかりの弟子たちに、間もなく、「私は世の光である。 私に従がう者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)と言われるでしょう。 このようにイエスはご自分の生きておられた時代の人々に、光と信頼と言う必要なものを与えられます。
イエスのこの態度は、私達に差し向けられるものです。 というのは、この光は「あなたは世の光である」と言いながら、私達一人ひとりに委ねられました。 この光を私達は洗礼の時に、枡の下に隠す為ではなく、輝いて私達の周りを照らす為に受けました。 私達自身のうちに臆病に閉じ篭っていることは出来ません。 反対にキリストをまだ知らない人々と交わるように努めたり、むしろイエスと彼のメッセージを伝えましょう。 今日、私達はどのように福音の光り輝く証人となるでしょうか?
イエスは洗礼者ヨハネの説教の内容を取り上げて「回心しなさい、神の国は近いから」と言われます。 あなたの心を変えなさい。 あなたの生き方を変えなさい。 神があなたの人生を導かれるままにしなさい。 自発的には、私達はなかなか神の方へ向かないし、他の人にも向かない事を私達はよく知っています。 自然的には私達は自分自身を中心にしています。 道を間違えるとき、方向を変えなければならないと私達はよく知っています。 「回心しなさい」とキリストが言われる時、私達を正しい方向へ招いています。 というのは改心すると言うことは、方向を変える事を意味しているからです。 それはキリスト御自身がなさった事です。 人々から遠く離れた砂漠の中で生きていた洗礼者ヨハネは、人々を引き寄せましたが、反対に、イエスは人々と出会うために町へ行かれました。 聖なる土地であるユダヤで説教したヨハネとは反対に、イエスは軽蔑された場所、異教の人々の故に汚れた土地であったガリラヤで説教をしました。 つまり、祭司ザカリヤの息子である洗礼者ヨハネは、彼のほうへ来た最もよく出来る人々を弟子として受け入れ、イエスは反対に、それほど上手でないし欠点の多い人々のうちに自分の弟子たちを捜しに彼自身が出かけました。
さらに、彼らがプロとして働いている真っ最中に、イエスは最初の弟子を呼ばれます。 ペトロ、アンドレ、ヤコブとヨハネです。 彼らのうちで既に回心は始まっていました。 イエスはナザレトの静けさから離れ去り、この4人の弟子たちも同様に、カファルナウムの湖畔に背を向け、船や魚を取る網や家族や友人を去って、イエスに従って、彼と共に神に向かいました。
このように私達も出来る限りキリストに向かい、恐れずにキリストに従がいましょう。 今朝、私達は詩篇「主は私の光、私の救い、私は何を恐れよう」を歌いました。 イエスに従いながら、私達は良い道を光のうちに歩むのだと確信をもっています。 そうすれば私達みなの内に一致を実現する事ができます。 イエスと共に歩く人は、回心した人です。 しかし、動こうと望まない人は、自分の信仰を危険に落としいれ、神に背を向け、神との約束を破る事になると知らなければなりません。 アーメン。
年間第4主日 2011年1月30日
ゼファニヤ書2章3節、3章12,13節 Tコリントの信徒への手紙1章26−31節 マタイ5章T−12節
私たちは皆この世で幸せであることを希望しています。 しかし私たちはどんな幸せを望んでいるのでしょうか? 富、健康、安全、家族的な喜び、安定した仕事でしょうか? 私たちの一人ひとりは 多分、自分の心の奥底に、自分の歩くべき道を発見し、もしできれば、種々の問題を避けて、のびのびと育っていきたいと考えています。 ですから、幸せとは空の器のようなもので、一人ひとりが各自のやりかたで満たすものではないでしょうか?
イエスは私たちが幸せであるために何をしなければならないかは語らず、むしろ期待はずれな事を言っています。 というのは、幸せである為には、飢え、泣き、迫害され、貧しく、侮辱されねばならず、この幸せは私たちの希望と全くあいません。 特に山上で宣言された事を実際にイエス自身が生きた結果、十字架上の死という悲劇的な最後を遂げた事を知ると、こんな幸せは望ましくないと認めざるを得ません。 聖書の中の話はすべて、世の中の現実は十字架をになっていく現実であることを思い起こさせます。 天国で約束された幸せを得るためは、私たちは苦悩と涙と貧しさの中に留まらなければならないのでしょうか?
キリストの福音は良いメッセージの宣言であって、信じている人の上に数え切れない災いが起きるという予告ではありません。 キリストの言葉はこの世の論理に対する輝かしい勝利の宣言です。 「知恵のある者に恥をかかせるため、神は世の無学な者を選ばれました」と聖パウロは私たちに思い起こさせます。 キリストの言葉は弟子たちに呼びかけられましたが、それは彼らに勇気、慰め、希望を与える為です。 イエスは不幸が生命に打ち勝つ事はできないと言明しました。 そして私たちの悪のすべてを引き受けてキリストは死にました。 それはイエスの山上で言われた言葉は、真理であり、生命であることを、自分の復活によって、私たちに示す為です。 そういうわけで、キリストは死に打ち勝ったと公言し、同時に、キリストを支えにして、私たちも死に打ち勝つ事ができると宣言します。
キリストの言葉は私たちに幸せの道を示します。 真理と生命を詰め込んだこれらの言葉を受けながら、私たちは自分のうちにこの幸いの秘訣をもっていない事を認めます。 人生の数々の試みにも拘らず、イエスだけが私たちを本当の幸せに導く事ができると認めましょう。 私たちの涙、苦悩、悲惨さは今直ぐでも神の憐れみに満ちた手からすべてを受ける可能性を与えます。 平和と正義への渇望がイエスを私たちの傍に引き付けます。 迫害はキリストと私達を親密に一致させ、さらに、キリストが父から受けた栄光とも親密に一致させます。 キリストの弟子である私たちは幸いです。
それ故、イエスは私たちが直ぐに消える小さい幸せではなく、本当で長く続く幸せを捜し求めるように招きます。 そのために、キリストは私たちに自己離脱、柔和、平和、正義、清さ、慈しみ、涙の道を、また苦悩と試みの多い道を提供します。 人生の歩みを通して、日常生活での分かち合いを体験しながら、これらの道はすべてを神の発見や、神との出会いへと私たちを導きます。 それらの道は永遠の幸せである神の命の神秘へ私たちを招きいれます。 度々これらの道は交錯しあっています。 しかしイエスはすべての道に現存して、私たちと共に歩み、私たちに力や忍耐を与え、特に聖霊の賜物を与えます。
生きるために与えられる日毎の出来事を信仰と勇気をもって受け容れましょう。 もしそれに喜びが伴うなら、神の憐れみの故に神に感謝しましょう。 もし反対に涙を伴うなら、信頼の心をもって泣き、神の憐れみに委ねましょう。 このようにして私達は、人間としての生活の中に、イエスの言葉とそのみ言葉が示しているすべての約束を組み込みましょう。 イエスの言葉が、私たちの人生の中で既に神と完全に結ばれているものを発見する助けとなりますように。 アーメン。
年間第5主日 2011年2月6日
イザヤ書58章7−10節 Tコリントの信徒への手紙2章T−5節 マタイ5章13−16節
「あなた方は地の塩である」とイエスは私たちに言いました。 この表明は私たちに何かを分からせるための、一つの比較のイメージではありません。 これはキリストの弟子である私たちの身分を語っています。 神は天において「私たちの父」であるように、地上において私たちは「地の塩であり、世の光です」。 イエスは私たち一人ひとりが地の塩、世の光でなければならないとは言いません。 イエスは私たち一人ひとりがそのようになるように努めなさいとも言いません。 実際私たちは、個人的にではなく、共同体としてそのようなものです。 教会においては皆共に、イエスの弟子としての集合体です。 私たちの共同体の信仰と希望の証しは私たちを取り巻いている者すべてに、神の味と神の光を与えます。
私たちがここに集まっているのは、人が私をどんな目で見ているかに関係なく、神の眼差しのもとに、祈り、信仰を養う為です。 私たちの共同体の信仰の証しは、人が受けようとも受けなくとも、重大な事ではありません。根本的なことは、「折がよくても悪くても」(Uテモテ4章2節】証しをすることです。 地の塩であり世の光であることは、神が私たちに期待している事に忠実である事です。 私たちの信仰を表明して、自分の評判をでっちあげることではなく、むしろ私たちが神の王国を建設する事です。 パウロは自分の信仰を証するために、不器用で弱い事を知っていましたが、神の権能にたえずよりかかっていました。 人々が自分についてどう考えているかを無視しました。 コリントの信徒への手紙の中で、パウロは、「私たちはキリストのために、愚か者となっている」(@コリント4章10節)と述べ、私たちが証するのを妨げるものは何もないといっています。
何世紀かの間、教会を迫害する者は、キリスト者は馬鹿な者だと考えていました。 18世紀に、反宗教の哲学者たちや革命家たちは、宗教の暗闇に支配されている人々に、理性の光を提供しようと望みました。 共産主義者は、キリスト者であろうとなかろうと信仰をもつ人々が人類の進歩への道を照らすのは不可能であり、逆行させていると思いました。 イエス自身が「私は世の光である」といっています。 そして私たちはイエスの弟子であり、イエスの御体の部分であると、私たちについても同じ真理を話しています。「あなたがたは地に塩であり、世の光です」と。 イエスの証しが受け容れられなかったのと同様に、私たちの証しも受け容れられない可能性は高いです。 しかしそうであろうと、私たちは証しをしなければなりません。 私たちの弱さは練り粉全体を膨らませるパン種です。 迫害者や 軽蔑する人や 無関心な人々に立ち向かう勇気は、いつも立派な実りをもたらし、信仰が伝えられるのを可能にしました。
信仰と希望と共感の証しによって、私たちの共同体は神ご自身の心の光を反映します。 私たちの行いが神の愛を示す時、それは暗闇を追い払い、神を啓示する光となります。 パン種を分かち合うことや他人の願いを拒否しない事、また第一の朗読で預言者イザヤが私たちの要求した愛の業を実現する事で、「私たちの光は曙のように射し出で、」また「私達は地の塩となる」でしょう。
しかし注意してください。 味のない塩となってはいけません。 もし私達が神に親密に結ばれなければ、私たちは世に味をつけることは出来ないし、世を照らす事もできません。 神の味、真実の唯一の香りを失ったキリスト者は何の役にも立ちません。 その人は「生ぬるいので、神の口から吐き出される」(黙示録3章16節)ものになります。 神との一致に留まりましょう。 そうすれば、人々は私たちのうちにおられる神の現存に引き寄せられるでしょう。 私たちは風に揺らめく炎になってはなりません。 かえって神の光であり、皆にとってキリストの味であるはずです。 さあ、火と燃える神の言葉によって焼き尽くされましょう。 神だけがこの世を照らすからです。 アーメン。
年間第6主日 2011年2月13日
シラ書15章15−20節 Tコリントの信徒への手紙2章6−10節 マタイ5章17−37節
「私が来たのは律法を廃止するためではなく完成する為である。」とイエスは公言します。 しかし実際、イエスはご自分が言った事を私達が実現するように願っているし、その上さらに、律法を守っているユダヤ人以上に、私たちがもっとよく実現するように求めています。 こういう意味から、イエスはモーセの律法以上に厳しいものを要求します。 しかしながら、イエスが要求するものと律法の間には、重大な違いがあります。人は律法を自分の義務として実行し、イエスは愛と自由の道を私たちに提案します。 このようにイエスは神と私たちの間に深い一致を実現したいのです。 愛するのはもはや律法ではなく神と私たちの兄弟姉妹をこそ、愛さなければなりません。 奴隷のように仕える律法にではなく、神に仕えるのに、神と親密に分かち合うのでなければなりません。 キリストの目的は人が自分自身と和解し、更に神とも和解することです。
イエスが全人類にもたらす新しい調和は人の心を通して伝わります。 律法の奴隷制度から私たちを解放すると同時に、イエスは私たちの心に神の愛をあふれるほど注ごうとします。 イエスにとって律法への尊敬はまず神と他の人への尊敬を通して実現されます。 そのために、イエスは私たちに次のように言います。「兄弟があなたに反感を持っているなら、あなたの供え物を祭壇の前におき、まず行って兄弟と仲直りをしなさい」「兄弟に馬鹿と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と。 自分の兄弟を傷つけることは、神ご自身を傷つけることです。 ですから正しい人であるように、自分と神をぴったりと合わせる必要があります。 これは隣人についても同様です。 それは愛に生きるために、また、その愛が神に栄光を与え、私たちを聖化します。
神への愛と隣人への愛は同じ愛です。 イエスの言葉は実現しにくいように見えますが、この言葉が救いを与えます。 キリストの真実の弟子であるために、この言葉は必要な識別力を与えます。 イエスの言葉は救いと平和を与える言葉です。 モーセの律法によると、命への尊敬、隣人への尊敬と神への尊敬は強制的な命令でした。 キリストの口から、この律法は隣人への愛の喜ばしい確認、人々への自由の尊敬、同時に、神に対する絶対的な信頼を呼び起こす呼びかけとなります。
律法を廃止するのではなく、完成する為に来たと言うイエスは、私たちに律法を守る事と愛する事は対立するものではなく、むしろ欠かせない二つの様相であることを示そうとします。 人はまず法に従い、それから強制的に学んだ事を愛によって行なうほうがもっと利益があると言う事を理解します。 律法と愛は違ったものでありながら対立していないので、このふたつの間でどちらかを選ぶ必要はありません。 実に私たちは両方を必要とはしていないのです。 つまり愛があれば、法は必要ではありません。 しかしこの世には、絶望的に愛が欠けているから、法が必要です。 と言うわけで、自分たちの問題を解決する為に、人々はしばしば法律と裁判官を利用します。 もし人が愛と赦しに第一の立場を与えていたら、沢山の悲劇を避けることが出来たでしょう。
昔、母親は義務によってではなく、愛によって自分の子供を育てていました。 皆がよく知っているように、残念ながら今日では、ある両親は自分たちの子供をほったらかしにしているから、この両親に自分の子供の衣・食・住に心を使い,正しく教育をするように多くの法が決められています。 そこで、イエスが私たちの思い起こさせる事は、私たちが置かれた状況の中で愛を示す事ができないなら、残念な事ですが、法律に従がわなければならないと言うことです。 法律の廃止は必ず無秩序状態を作り出します。 愛の欠如はこの世を滅びに突き落とします。 ですから、私たちは命に導く物事、この世を救う物事を選びましょう。 イエスは良い選び方を私たちに教えたからです。 ア−メン。
年間第7主日 2011年2月20日
レビ記 19章1,2,17,18節 Tコリントの信徒への手紙 3章16−23節 マタイ 5章18−48節
今日、イエスは謙遜と愛の業によって悪に打ち勝つように願います。 怒ることは簡単ですし、自分のうちに悪事を企てることも、また私たちに恥をかかせ、苦しみを与えた人々の不幸を願う事も簡単です。 この暴力の世では、「悪人に手向かわない」ことや「悪の前で譲歩する」ことは、人々にとって、臆病や弱さのしるしと思われます。 そういうわけでイエスは、この私たちの弱さの中心に愛が見て取れるように望まれます。 愛はいつも悪に打ち勝ちます。 それは愛が平和と赦しをもたらすからです。
神が私たちの心に注がれた愛が自分の自己愛によって奪われ、飲み込まれないように、私たちは絶えず闘う必要があります。 受けた傷を頭の中で反すうするよりも、聖霊の力を願いましょう。 それは私たちに害を与えた人たちの利益を捜し求める謙遜さを頂くためです。 私たちはキリストに属しているので、高慢、自己愛、利己主義が私たちを支配しないように、全力を尽くさなければなりません。 これに対して、祈り、キリストの受難の黙想は効果的な助けであり、真の力です。
第一の朗読の中で、神はご自身が聖であるように、私たちも聖であるように求められ(レビ記19章2節)、更に聖パウロは私たちが神の神殿であることを思い起こさせます。 悪を行なう人々に対して私たちがしなければならない正義は、憐れみであって復讐ではありません。 自分たちの敵を愛し、世界中のあらゆる所で私達を憎み、教会を迫害する人々のために祈りましょう。 このことこそ神が私たち皆に求められる義です。 罪人に対するこの絶え間ない祈りは、私たちを神の子供とし、神殿とします。 神は永遠の善であり、あらゆるものの救いを望まれます。 神に似たものとして創造された私たちは聖霊の力に満たされて、悪を犯す人々に対する善良さ、忍耐力、赦しなどを示す必要があります。 殊に、その悪が直接私たちに関係があろうとなかろうとです。
マリアもまた彼らの死の時までたえず罪人の為に祈ります。 彼女は彼らに永遠の救いを与えることが出来る時まで、決して希望を失いません。 謙虚に忍耐強く愛するのに必要な力をいただくために、私たちの祈りがマリアの祈りと一致しますように。 『憎しみのあるところに愛をもたらし、不和のあるところに平和がもたらされるように』 私たちの心に謙遜、善意、憐れみを持つために、このアッシジのフランシスコの美しい祈りを度々繰り返しましょう。 最後に今日の福音によってイエスから伝えられた言葉をしばしば繰り返して読みましょう。 イエスは憐れみの源であり、そのみ言葉は命のみ言葉です。 イエスなしには何も出来ない事を私達はよく知っています。(ヨハネ15章5節) 私たちが悪と不正の犠牲者であるとき、イエスにしっかりと結びついているようにしましょう。 というのは、悪と不正の犠牲者である以上に、自分の弁護と復讐を望む私自身の傲慢の餌食とならないためです。
イエスは私たちのために天の門を開きます。 それは私達が本当にそこで生きるのを許されるためです。 そこに住む者は神が限りなく愛される子供たち、憐れみ深く聖である子供たち、罪人の永遠の救いのために祈り、仲介する子供たちです。 死に打ち勝ったキリストに一致して、死と悪に打ち勝ち、「天の御父が完全であるように私たちも完全な者」となりましょう。(マタイ5章48節) ア−メン。
年間第8主日 2011年2月27日
イザヤ書 49章14,15節 Tコリントの信徒への手紙 4章T−5節 マタイ6章24−34節
心配しない事、ストレスを生じさせない事、むしろ私たちの幸せを望む神を信頼すること、これこそ今日のテーマです。 神は私たちの事を絶対に忘れられないとイザヤは教えます。 もし、私たちの事を心配する誰かがいるとすれば、その方は神ご自身です。 以上のような理由で、いつも神に希望を置くようにとイエスは勧めています。 どれほど思いがけないことがあっても、私達が幸せであるために大切な物事を与えながら、神は私たちを見守ります。 「誰も二人の主人に仕えることは出来ない」 この言葉は今の時代によく合います。 何故なら私達はたびたび、役に立つものと快適なもの、またどうしても必要なものと取るに足りないものとの間で、引き裂かれていますから・・・
まず神の国とその正義を捜し求めることは、私たちに対する神の計画と自分達の欲望との間にあまりにも大きすぎるずれがないようによく注意し、捜し求める事です。 神の意志をおこないながら、自分自身の計画を実現するためには、神に祈ることが求められます。 何かを始める前に、大きくても、小さくても、どうであっても、神が私たちのプランを祝福するように願う知恵をもちましょう。 たとえば家庭を作り、食事を準備し、子供を教育し、または少教区で奉仕することなどです。
もし心配する必要があるとすれば、自分の日常生活と信仰生活の間で実際にバランスが取れているかどうかに気を配る事だけです。 神が毎日、実際に私たちの世話をされる事を十分信じているでしょうか? もし答えが「いいえ」であれば、「私たちの日毎の糧をお与えください」と祈る時、私たちの祈りは偽善であり、無駄なものでしょう。 神の国を捜し求める事は、真理のうちに、自分の信仰に生きる決意を持つことです。
私たちは神に何も期待しない人になってはいけません。 何故なら、ある日、どうしても神の緊急の助けがほしい時、「あなたたちのことは全然知らない。 不法を働く者ども、私から離れ去れ。」(マタイ7章23節)と神はきっと私たちに答えるでしょう。 うるさい未亡人の例え話(ルカ18章1−18節)を通して、神がうるさくてかなわない人や、昼も夜も嘆き叫ぶ人を好まれるということをイエスは私たちに思い出させます。 神は特に私たちに聖霊を与えようと望まれます。 それは神ご自身の力によって私たちを強める為、またご自分の聖性によって私たちを聖化するためです。 私たちの弱さと限界が、神を土台にすると同時に神のいつくしみが必ず与えられる事を信じるように神は望まれます。
神が私たちに賜物を与え、その上に私たちの幸せの土台をおきます。 ご自身の王国を建設するために、神は私たちを通して働かれます。 神が私たちを信頼するからこそ、私たちも神を信頼しなければなりません。 私たちの手段の欠けていることが、恐れずにまず神に向かうように、そして私たちを助けるものとなりますように。 私たちの弱さと限界が、忍耐すること、希望すること、祈願すること、前よりもっと祈る事を学ばせます。 このような態度は、神の手に自分を委ね、謙遜への道を歩むように私達を導きます。 神の国は先ず私たちのうちに建設されます。(ルカ17章21節参照)
神の正義を捜し求める事、それは神が私達を形作り、変容し、変化するのを許すことです。 神の正義を捜し求める事、それは感謝のうちに生きることです。 またそれは人生の賜物や、受けた全ての恵や、私たちの喜びとなった全ての物事や、私たちが住んでいるこの素晴しい世界のために、神に有難うと言う事です。 一つ一つのミサそれぞれは感謝の祭儀です。 ですから今日、このミサに参加することで、神に私たちの信頼を表明しましょう。 さらに、神の愛する子供である喜びと神の国の建設にあずかる私たちの幸せを捧げましょう。 アーメン。
年間第9主日 2011年3月6日
申命記 11章18−26,28−32節 ローマの信徒への手紙 3章21−25,28節 マタイ7章21−27節
王国を建設には、長い期間と困難を伴います。 言われた事を成就するよりも、聞くほうがもっとやさしい事を私たちはよく知っています。 実際、行いを実現するよりも討論するほうがよほどやさしいこともよく知っています。 聖パウロはコリントへの第二の手紙で信徒に次の事を思い出させます。 飢饉の犠牲者であるイスラエルのキリスト者を助けようと、あらゆる教会で募金を集める段取りを最初に考えたのはコリント人でしたが(使徒言行録11章27−30節参照)、今まで彼らは何も寄付しなかったと言うことです。(Uコリントの信徒への手紙8,9章参照)
神が望まれたことを全くせずに、受けた恵の故に神を賛美することは、砂の上に建てることです。 イエスの本当の弟子たちは計画を聞いたりしたりすることだけで満足しません。 むしろ受けた教えに従って、それを具体化するために十全に生きようと努力します。 私たちの言葉、行い、行動はキリストが私たちの人生の岩である事を示すものでなければなりません。 キリスト教的でない振る舞いは、つまずきでしかありません。 隣人の悪口をいい、他人のしようとすることをを批判すること、また隣人を赦そうと望まなかったり、助けるのを拒絶したり、教区の維持費を納めるのを拒否するなど、これらは砂の上に建てることで、全てを破壊する嵐を自分のほうへ引き寄せることです。 そこで主が「私から離れなさい。悪を行う者よ。」といわれるには論拠があります。
私たちは祈りをし、信仰のうちに行う為に、神のみ言葉を聞きます。 結局、信仰だけが私たちの行い全てを正しくします。 パウロがローマの信徒への手紙の中で説明しています。 「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ書3章22節)は父のみ旨の実現です。 岩の上に建てることは、私たちの人生のあらゆる面に神のみ言葉が浸み込むように望む事です。 岩の上に建てることは、神の光のうちに生きる事を選ぶ事です。 岩の上に建てることは、神のみ旨を成就するためによろこんで聖霊に導かれるままになることです。
イエスの母マリアは聞いた言葉や日常の様々な出来事を自分の心に納めて、それらを賛美の祈りと観想に変えました。 マリアの信仰は生き生きとして自然で、すべては神に感謝するために恵まれた道になりました。 私たちの信仰は神の賜物であり、もし私達が望むなら、私たちもまたすべての出来事を感謝と命の道に変えることが出来ます。 人生の小さい出来事の中でさえ神のみ旨を成就する事は、神に栄光を帰し私たちのうちに生きているキリストの証しとなります。
行いを伴わない信仰は弱いとイエスは私たちに言います。 聖ヤコブは彼の手紙のなかで、同じ事を繰り返しています。 「私の兄弟達、自分は信仰をもっていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか?」(ヤコブ2章14節)と。 このように神のみ旨を実現する私たちの行いが、私たちの信仰の目に見える印です。 この行いがまた私達が真の証人であることを示します。 神のみ言葉は確かに真理の道を生きる大きな助けです。 神のみ言葉はゆるぎない巌であるキリストの上に、私たちの共同体を築き続けるのを可能とします。
キリスト教的生き方は神の言葉を受け、聞き分け、隣人への奉仕と、隣人に気を配るということを実行することの組み合わせです。 神のみ旨を行なう事と隣人に奉仕すること、これこそ岩の上に自分の家を建てることです。 それはまたキリストと共に世の光と地の塩になることです。 ですからこれらの事を理解したら、直ぐにマリアと同様に神に感謝しましょう。 アーメン。
年間第10主日 2008年6月8日
オセア6,3-6 ローマ4,18-25 マタイ9,9-13
今日の朗読は神の憐れみの神秘を説明する為に一つにまとめられています。 キリスト誕生前8世紀頃に、預言者ホセアは神と人間との関係を、結婚によって説明した始めての人です。 ホセアにとって 救いの歴史は愛の歴史、愛の物語となりました。 神が私達一人ひとりから期待しておられる事は、すべての夫が自分の妻に望んでいることです。 つまり、心も魂も体も、全てを彼に委ねることなのです! ホセアによれば、罪とは律法の違反ではなく、姦通そのものです。 これこそ最も重大な不忠実で、愛の裏切りなのです。
ローマ人への手紙はアブラハムがどのように、信仰によって、神の友となったかを示しています。 信じるとは、私たちを迎え入れる神との出会いです。 信じるとは、神の普遍性を確信し、私達の不安定さを納得する事です。 信仰は希望を与え、その希望は完全に復活を信じるところまで、神に全面的に信頼を置くと言うことです。
マタイの物語はテーブルの前に座っている事から始まります。 テーブルの上には、貨幣が山積みになっています。 イエスの呼びかけに対するマタイの答えは、彼の友人皆に囲まれた祝いの食卓に、彼を導きました。 マタイの人生は、もう一つのテーブルの脚もと、つまり聖体のテーブル、祭壇の脚もとで終わります。 というのは、「彼はミサを捧げた時、祭壇の神秘を執り行っている時、殺されて、死を迎えた」と言い伝えられているからです。 このように一つのテーブルから他のテーブルへと、徴税人のレヴィから聖マタイ、使徒、福音作家、そして殉教者にと彼は変わっていきます。 彼の名前は「神の賜物」を意味しています。
マタイが友人皆を食事に招いた時、「私のようにして、イエスに従いなさい」と言う為ではありませんでした。 マタイは、自分の幸せに友人たちを引き寄せたいと望むほど、イエスの憐れみによって変えられていました。 このように、マタイの使命は 喜びと友情と分かち合いの内に始まりました。 しかし、祝いは直ぐに、ファリサイ人によって妨げられました。 「何故あなたの先生は、徴税人や罪人と席を共にして食事をするのですか?」と。 イエスはこれに、預言者ホセアの言葉で答えられます。 「今、必要な事、死活に関わる事は、憐れみであって、犠牲でもなければ、律法の几帳面な遂行でもありません。 皆、医者が必要なのです」と。 イエスは感染を恐れることなく、病人の傍らに駆け寄る医者、そのものです。 イエスは世話されるままに彼を受け入れる人の傍におられます。
ファリサイ人は裁き、批判します。 イエスは世話をし、癒します。 イエスにとって、罪人と共に祝宴の食事をする喜びを分かち合うことは、彼らの行いを承諾することではありません。 が、これが神の憐れみを彼らに差し出す唯一つの方法なのです。 彼らがイエスを受け入れることを承諾するならです。 今日でもまだ、イエスの聖性で養われる為に、イエスを望む人すべてと、イエスは食事を共にします。 私達はイエスについて行くから、またイエスを受け入れるから、マタイのように、イエスのうちに、癒しと救いの命の泉を発見するのです。 皆、招かれ、呼ばれています。 特に罪人はそうです。 聖パウロはキリストに従う人すべてに、「呼ばれる者」というタイトルをつけました。 「呼ばれる者すべては、私達がすべて罪人であり、そして、イエスだけが私達を裁かれるであろう」事を知っています。
軽蔑され、また罪人であると言われたマタイは、長い間に亘って、人々が憐れみの眼差しを注いでくれるように望んでいました。 「私についてきなさい」と彼に言われたイエスのうちに、漸くこの愛の眼差しを見出しました。 そこで彼は瞬時にすべてを捨てました。 この恥ずかしい仕事を捨てよう、主な収入の元であるこの仕事を捨てよう、同時に、自分の皮膚に張り付いている不名誉な評判も終わりだ! と・・・。 今日もなお、イエスは、お金の心配に縛り付けられている人々に、憐れみの眼差しを注いで、「私についてきなさい」と言われます。 どうしても、すべてを支配したいと望む人々に愛の眼差しを注いで、「私についてきなさい」と言われます。 イエスは、恨み、怒り、憎しみ、軽蔑で心を捕えられている人々に、憐れみを差し出して、「私についてきなさい」と言われます。 イエスに従うというのは、彼の後を歩くということよりも、イエスのように生きると言う招きです。 聖パウロは「一切高ぶることなく、柔和で寛容の心を持ちなさい。 愛を持って互いに忍耐し・・・ キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェ4章2,14節)と私達がどんな風に、生きるかを示しています。 そしてイエスの名によって、癒しと救いを与えるこの憐れみの眼差しを注ぎましょう。 それは、私達を「天の御父のように憐れみ深い者」とならせるでしょう。(ルカ6章36節)アーメン。
第11の主日 2008年6月15日
出エジプト19,2-6 ローマ5,6-11 マタイ9,36-10,8
群集は皆、疲れ、打ちひしがれていました。 神の国について説き明かしながら、歩き回っておられた時に、イエスがしばしば目にされた群衆の姿はこれでした。 この群集は、癒しを願う為に、希望と勇気を再発見する為に、信頼の言葉を聴こうと殺到してきたのです。
イエスの時代には、律法は すべてを 神にとって清く、心地よいものと、神の目に汚れていて不愉快なものとに分けました。 穢れたものと宣言される場合は一杯あります。 たとえば、公然と罪を犯すこと、病気であること、清さの規則に対する反対の行いと、規則に対して反対の仕事についていること、異邦人としばしば出合って、それが社会的、宗教的生活から、人を遠ざけていることなどです。 弟子たちに、悪霊を追い払ったり、人を癒したりする権能を与えながら、イエスは、この清さと汚れの論理を打ち砕きたいと望まれました。 イエスにとって、すべての人は、近づき、愛され、慰められ、赦され、尊敬されるべきものです。 ですから、イエスは、ご自分の弟子たちに、人々の神に対する信頼を取り戻させ、神が例外なく、すべての人に気を配っておられる事を良く示すようにと、使命を与えられました。 収穫は豊かであるが、群衆の苦しみは数え切れません。 そこでイエスは「神が他の人々を慰める事ができる人を送ってくださるように」と祈らなくてはならないと言われます。 勿論、神はそんな事をお願いしなくても、世が必要としている働き手を送ることが出来ます。 しかし、神は押し付ける事を決してなさいません。 神は人が自分の責任を取るように望んでおられます。 つまり、もし人が助けて欲しいと望むなら、神にはっきりと、願いに来るようにと・・・。
ギリシャ語のテキストでは、「収穫の為の働き手を『外へ放り出す』ように、収穫の主に祈りなさい」と書かれています。 『外へ放り出す』と言う表現は非常に強くて、『送り出す』という言葉よりも、イエスが感じておられる使命の緊急さを、もっとよく表しています。 弟子であると言うことは、唯単にイエスと共に留まると言うことではなく、効果的に、自分のいるところで、イエスの名において行う事でもある事を、全ての信仰者が自覚するように願っておられます。 イエスは私達が彼のように行う事を望まれ、私たちの遠くにいようと、近くにいようと、その人達の苦しみを、私達の腹の底まで感じるように望まれます。
私達一人ひとりは、キリストにおける信仰によって、一人ひとりの環境において宣教者です。 イエスは毎日、私たちが頻繁に出会う人達に向かって、私達を遣わされます。 というのは、イエスは私達の癒しの能力と可能性をご存知だからです。 私達の疑い、恐れ、罪、信仰の欠如はイエスにとって問題にはなりません。 その証拠として、聖ヨハネは、自分の第一福音のなかで、復活されたキリストと弟子たちとの出会いを述べています。 ユダが裏切り、ペトロが否むと言うそれほど輝かしくない彼らの事情について、皆、恥ずかしく思っていたし、その上、恐れに捕らわれていました。 しっかりと鍵を下ろして、閉じこもり、彼らは十字架の挫折を受け入れていませんでした。 それにも拘らず、模範的でなかったこの弟子たちに、イエスが「平和があなた方と共にあるように・・・・・父が私を遣わされたように、私もあなた方を遣わす」と宣言されました。 このことは、 私達の弱さ、恐れ、罪が、周囲の人に対して証人になれないという 口実にはならないという証しです。 一人ひとりにイエスは、「恐れないで、祈りなさい。 あなた方は無償で頂いたから、無償で与えなさい!」と飽きもせずに繰り返されます。 そして聖パウロに言われたように、「お前は私の恵で充分だ。弱さにおいてこそ、力は余すところなく、発揮されるのだ」(2コリント12章9節)と私たちにも言われます。
私たちは独りぼっちではありません。 イエスは私たちの日常生活に付きそわれ、教会の秘蹟と祈りで私たちを力づけられます。 なぜなら、イエスと教会は一つであり、キリスト者とキリストは一つだからです。 キリストの体は一つしかありません。 これは神秘であって、確かに、理解する事は難しいですが、その事を証しなければなりません。 というのは、キリストとの一致の神秘は私達の信仰、私たちの人生の中心だからです。 「私にとって、生きるとは、キリストです!」(フィリッピ1章21節) このパウロの言葉は全キリスト者の日常の経験でなければなりません。 「私は弱い時にこそ強い。(ヘブ11章34節)」と更に聖パウロは言っています。 パウロのように、自分の弱さを受け入れ、それをイエスに捧げて、聖霊の力の内に証しすると言う事を学びましょう。 イエスにおける私達の信仰が、絶えず祈る魂、何処にあっても証人になろうとする寛大な心、そして、何よりも神のみ言葉への燃える愛を、与えますように! このようにして、私たちが出会う全ての人に対して慰め、赦し、癒しとなることが出来るでしょう! 私達、皆が、しだい次第に、キリストの内にあって、一つの体、一つの魂、一つの心となるように、心から望みましょう! アーメン。
年間第12主日 2008年6月22日
エレミヤ20,10-13 ローマ5,12-15 マタイ10,26-33
「恐れてはならない」 神について話すのは簡単ではないとイエスはご存知でした。 イエスについて、または自分の信仰について思い切って話すのは、勇気のいる行為になりました。 あえて証をしようとする人は、共感を抱いたり、激励を受けたりするどころか、度々、恐れや、侮辱や、冷笑というような試練や、時には、迫害をさえ受けなければなりません。 キリストの死の時、パニックに陥った使徒たちは、戸や窓をしっかりと閉め切って、大急ぎで、家の中に閉じこもりました。 恐れほど人を無力にするものはありません。 恐れはすべての情熱、熱狂の動きを止め、自分自身であること、自分の考えを述べる事を妨げます。 恐れは種々の形をとり、至る所に影響を及ぼします。 それは悪い事に、伝染病のように、伝わります。 そういうわけで、イエスは私達に「恐れてはならない」と言われます。 又「人々を恐れてはならない」とイエスは言われます。 勿論、人々は私達を殺したり、私達の体を損ねたり出来ます。 しかし、誰一人として、私達の希望であるものを破壊する事はできません。 それはイエスと、私達に与えられる永遠の命です。 私達の神である父は、細心の注意を払って私達に愛を注ぎ、限りなく注意を払われるから、恐れないようにと、イエスは私達に頼みます。 アウシュビッツの死のキャンプで、コルベ神父は彼とともにいた人達に、このように「恐れてはいけません。 聖母マリアもあなたの近くにおられますから」と言って、勇気付けていました。
「体を殺す事のできるものを恐れてはならない。 魂を殺す事のできるものを恐れなさい」 では「魂を殺す」とはどういうことでしょうか? イエスを肯定する私達の唯一つの恐れは、神から離されて、神を自分の支えにすることが出来なくなることです。 「主の祈り]を与えて、イエスは私達が信仰を否定する誘惑に陥らないように祈るようにと、特別に勧められます。 私たちの唯一つの恐怖は、私たちの信仰と一致しないもので生きること、キリスト者ではないとほかの人に信じさせる事、神の言葉と祈りで養われる内面生活を持たないことです。 一旦、生き生きとした信仰を隠した生活をすると、あっという間に、不毛になり、人生の目的を失ってしまいます。 人生の目的とは、愛の中における神との永遠の一致です。
このような事を避けるには、先ず、神が私たちを見つめられるように、神に私達を愛される時間を差しげげて、祈らなければなりません。 それから御父の眼差しのもとに、限りない愛で私達が愛されている事を納得しなくてはなりません。 キリスト者である事を宣言するのを恐れず、信仰にもとづいて生きる事を恐れてはなりません。 共産主義やイスラム教のある国々では、キリスト者である事を言ったり、自分の信仰を明言したりすることは禁止され、イエスの名前を言う事でさえ、投獄される罰を受け、死刑の罰を受けることになります。 せっかく、信仰の自由が与えられているのですから、自分の信仰を誇りとしましょう。 もうすぐ、日本の187殉教者の列福を祝いますが、聖ペトロの言葉「主よ、私はあなたを信じます。 ご一緒になら、牢にはいっても、死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22章33節)を繰り返して言うことができますように! 今この時から、私たちの人生のあらゆる出来事を通して、葡萄の木にくっついている葡萄の枝のように、神にしっかりとくっついていると言う事を見せていきましょう。
私の命は神のものです。 自分の意思で神から離れない限り、誰も神の手から私たちを離すことは決して出来ません。 エレミヤは「神は私達一人ひとりに気を使われる保護者である」事を思い出させてくれます。 悪いニュースを預言しなければならない時、エレミヤはひどい目にあって、国家反逆の罪で告訴され、牢にいれられました。 このような苦しみにも拘らず、彼は恐れを支配し、神における信仰を表明しました。 「あなた方は何を言ってもいいし、何をしてもかまいません。 主は私と共におられます。 私は何も恐れません!」と。 恐れから、3回キリストを否んだ聖ペトロは、第一の手紙に(ペトロ1手紙、5章7節、10節) 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。 神があなた方の事を心にかけてくださるからです。 神はあなたを強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」と書きました。 そしてまた「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(1ペトロ3章15節)とも言っています。
勿論、神は私たちの立ち場に立ってすべてをなさるわけではありません。 神が造られ、救われた世界を完成するために、神は私たちを必要とされます。 それらが神の望みどおりにいかない可能性や、間違った方向にいく危険を神はご存知です。 しかし一つとても確かな事があります。 それは神のご計画は私達の生み出す全ての障害を乗り越えて、確実に実現する事です。 恐れてはなりません! 神は世界を発展進歩させる為に、私たちの手や私達の言葉を必要とされています。 私達一人ひとりが神の喜ばしい証人であるように、神の聖霊の力に満たされるものであるように、求められています。アーメン
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